ギャラリー萩

石川県加賀市 「ギャラリー萩」のホームページです。

土壌改良、元旦の大地震から、わが家も

今年初め1月1日午後、子供や孫たちを送ってから、年末から大忙しで年越しの準備をしてきた私は珍しく一寝入り、うとうとと目が覚めてベッドに横たわったまま。突然の強い揺れ、家じゅうからがしゃがしゃと音が響き飛び起きました。ベッドの周りは落ちてきて危ないものはおいていない、はずだ。アートフラワーと紙の写真額だけ。タンスからも遠い。それにしても私一人だ。扉を開けてリビングに出てみる。見たところ棚もテレビも異状ないようだ。メダカの水槽の水が溢れている。第二波の強い揺れが来た。テレビをつけると「今すぐ逃げて下さい。津波が来ます」と叫んでいた。そうだ、携帯と思って見ると息子からの不在着信がいっぱい、そして「お母さん反応して」とのラインだ。急いで電話をして無事を告げ彼らの無事を確認し避難することを告げた。そう逃げなければ、改めて火の元とと電気を確認し、厚めのコートを着、炭酸水ペット(普通の水がなかった)を抱え車で近くの高校の駐車場に向かった。この辺りで高いところ、普段からあそこねと決めていたところだ。年末にガソリンを入れていなかったことが気になったが仕方ない。既に何台もの車がやっていていた。何とか車を止め、さあどうしよう。寒のでエンジンをかけたまま一体何時間ここで過ごせるだろう。母屋の義義姉達が来ていないだろうか、と駐車場を探してみる。知り合いがいれば心強いだろう。私はひとりだ。帰省していた甥っ子に会い、皆ここに来てると聞いて一安心。大きな彼の車に義姉もいて乗せていただく。皆であれこれしゃべっていると落ち着いてきた。少なくとも私ひとりではない。若い人たちと一緒だ。その時に義姉から聞いたのだった。私たちの家の地面は亡くなった義父が用意してくれたものだったのだが、「元は田んぼだったのだから土壌改良はしっかりやらねばな」と念入りに土壌改良をしたとのころだ。お陰で、見た感じそれほどの被害はなかったのだ。老婆ひとりでも車があって、しかも幸いまだ運転ができてよかった。の実感。

私が手に入れた隣地は長いこと田んぼだった。引っ越してきたころ老夫婦が田んぼをしていた。郊外の梨農家の方で、まだ小さかった長男をよく可愛がってくださった。秋になると、子供たちにと規格外の梨をよく持ってきてくださった。稲架がけで丁寧な稲作をしておいでだった。ご高齢で止めた後次の生産者は大規模稲作の請負の方だった。耕作放棄の田んぼを預かり大きな重機を使い効率よく稲作をする。県境を超えて福井の田んぼも預かっているとのことだった。何年も経ったある年、病気になって稲がほぼ全滅になって、止めてしまわれた。その後地主さんは田んぼを埋められた。我が家に向かって土が埋められて来、それは土石流のような感じで迫ってきた。寝室のすぐ前まで埋められてしまうと少し怖かった。ひょいと覗かれることもあろう距離で家の周りは垣根も何もなかったからだ。そこで地主さんに3間ほど借りることをお願いした。信じられないほどの安値で快く引き受けてくれ、「ただし、農地として使ってください」とのこと。私は張り切って庭のような畑を作り始めた。ギャラリー萩の憩いの場でもあるように、枕木でデッキを作りその周りをジューンベリーや姫リンゴ、ブルーベリーの木々を植えた。それらはすくすくと育ち春の花の季節は夢のように美しかった。実りの時は小鳥たちの嬉しそうなさえずりが響き孫たちが来ると競い合って実を摘んだものでした。寝室から眺める3間の庭は私たちの癒しの空間でもあった。

大好きなスナップエンドウ、子供たちの好きなミニトマト、ルッコラやチャイブなどスーパーでは手軽に買えないお野菜を作りどれほど楽しんだことでしょう。じゃが芋や玉ねぎダイコン、ナスやキュウリなどは作ってみたけれど買った方がはるかにいいということがわかり諦めました。木々の成長が早く畑はだんだんと小さくなってしまいました。九谷村の実家の傍から採ってきたミョウガやフキノトウ、三つ葉なども植え薬味には困りません。私好みの雑多な畑でした。

15年もの間ギャラリー萩の庭として楽しんできた隣地が、手に入った!!の喜びは大きなものでした。75歳になっている私の僅かな老後資金の全てを使って家を建てます。メインは庭とギャラリースペースです。その片隅に暮らす、というか暮らさせてもらうというイメージの家です。「すみっコぐらし」です。ばーさんキャラを継ぎ足してもらいたいかも。設計士さんも元田んぼということで土壌調査を進めてくれました。やはり表土の下は、柔らかい粘土状だったので、工事前に土壌改良です。家部分の下に、長さ7メートルの鉄パイプ杭を縦に100本埋めるという。その上にべた基礎、コンクリートを全面に敷くという。掘り進めてコンクリやら砂利やらとかき混ぜてという方法ではないらしい。遠い将来元に戻すことは抜けばいいだけだから簡単ですよと。

そうして氷雨の降る寒い一日でした。杭打ち工事が始まりました。既に前日図面を片手に杭を打つ場所にピンクのリボンをが標されています。大きなトラックに乗って長く伸び居たクレーンを着けた専用機がやって来ました。工程表では3日間の作業で。時々互いの確認の声が響くほかは、静かな作業でした。積んである杭を運びピンク印の上に真っすぐに立ち上げそれを機器の手が掴み押し込めていく、その連続です。黙々と作業は進み、暗くなる頃もう後片付けが始まっていました。重機を洗い、作業用の道具を洗い、地面に敷いていた鉄板を洗い、でもう作業終了のようです。一日で終っちゃった、と私は驚くばかり。地震列島の日本が生み出した耐震土壌改良の工事です。信じてお任せするばかりですが、それにしても技術の進歩、それに伴う機器の進化凄いものでした。僅か3人の技術者たち、それぞれの持ち場で最大最善の仕事凄かったな。泥まみれのこの仕事の上に家が建ちます。私の新しい暮らしが始まります。

「すみっコぐらし」ってちょっと楽しそうではありませんか~。建て方、と言うらしい、木の柵を張り巡らされた空間に家が建つ。毎日何度となく寝室の窓からのぞきながら私は夢を膨らませています。

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